当時、世界最強を誇ったモンゴルの英雄「チンギスハン」。このチンギスハンとは一体どのような人物だったのでしょうか?
今回はチンギスハンの逸話や彼の残した遺伝子、源義経との同一人物説などをご紹介します。
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目次
チンギスハン
①チンギスハンとは
チンギスハンは1100年代後半~1200年代前半に活躍したモンゴル帝国の初代皇帝です。当時のモンゴルは数多くの部族に分かれて争いを繰り返していましたが、チンギスハンはこれを一代で統一し強大な国家を築き上げました。
画像:National Palace Museum
モンゴルにおいては建国の英雄であり、現在でも彼を英雄視する風潮が残っています。彼は軍人として優秀だっただけではなく、人としてもカリスマ性に溢れていました。
チンギスハンの死後から800年近くたった現在でも、世界中にファンが存在する人物なのです。
②チンギスハンの名前の意味
チンギスハンの「チンギス」は「海」や「荒れ狂う」の意味を持つ言葉が語源になっているといわれています。また、「ハン」には「王」という意味がありました。
そのためチンギスハンという名前には「荒れ狂う海を支配する者」という意味が込められているということになります。
画像:pixabay
しかし、このチンギスハンという名前は彼の本名ではありません。チンギスハンはモンゴル帝国の皇帝に即位したときにシャーマンによって付けられた称号であり、王としての名前でした。
彼の本名は「テムジン」といいましたが、有名になってからはチンギスハンの名前が定着していったのです。ちなみに現在ではより現地の発音に近い「チンギス・カン」と呼ぶのが正しいですが、ここでは日本で最も定着している「チンギスハン(チンギスハーン)」という名前で呼ぶことにします。
③モンゴル帝国とは
モンゴル帝国は1206年にチンギスハンが建国して以来、1634年に皇帝即位が終わるまで約430年にわたって栄えた国家です。モンゴル帝国はその名が示すとおり他国を侵略し、征服していくことで領土を広げていきました。
最盛期にはヨーロッパの一部からトルコ、アフガニスタン、中国、朝鮮半島までを征服しました。そして、地上の四分の一を領土とした人口総数1億を超える大帝国となったのです。
画像:Mongol Empire,Astrokey44
モンゴル帝国の侵略は凄惨を極めるものでしたが、大陸をまたいで一国が支配することにより、商業や貿易が盛んになりました。この貿易は国内外に大きな利益と繁栄をもたらします。
しかし、国内での権力争いが後を絶たず、大国はふたたび部族による分裂の運命をたどっていったのでした。
④チンギスハンは若い頃からカリスマだった
チンギスハンの父親イェスゲイは「勇者」と呼ばれる猛者であり、王族とも同盟を結ぶモンゴルの有力者でした。ところが父の死後その勢力は解体され、息子であるチンギスハンは敵対していた勢力から命を狙われるようになります。
しかし、父親譲りのカリスマ性を備えていた彼は、やがて他部族も無視できない実力者に成長しました。
画像:Sayf al-Vâhidî
チンギスハンは豪快な性格でしたが非常に寛大で、リーダーシップにも優れていました。そのため彼の父親を慕っていた盟友たちはやがてチンギスハンの下に集まるようになります。
こうしてチンギスハンはモンゴルの中でも有数の力を持つ勢力のリーダーになったのでした。
⑤チンギスハンは敗北しても人気があった
急激に勢力を拡大したチンギスハンでしたが、かつての盟友だったジャムカとの関係はどんどん冷え込んでいきます。このジャムカはチンギスハンの妻が敵勢力の人質になった際に、救出を手伝ったこともある人物でした。
しかし、ジャムカは急成長するチンギスハン勢力を危険視するようになり、ついに両者の仲は戦争をするまでに至ったのです。
画像:Sayf al-Vâhidî
最初の戦いでチンギスハンは敗れ、捕虜にされた仲間を釜茹での刑に処され失ってしまいます。しかし、処刑のあまりの残酷さにジャムカは人望を失い、多くの同盟部族が彼の下から離れていきました。
逆に敗北したはずのチンギスハンはそのカリスマ性から離脱した部族を取り込み、さらに勢力を拡大することになるのです。
⑥モンゴル帝国の始まり
モンゴルの一大勢力に成長したチンギスハンの軍隊は、残る部族との戦いに次々と勝利していきました。そして、遂に反チンギスハン勢力を指揮していたジャムカを倒すことに成功します。
こうしてモンゴルを支配下に置いたチンギスハンはモンゴル帝国を建国し、実名のテムジンではなく、「チンギスハン(チンギスカン)」と名乗るようになったのです。
画像:Sayf al-Vâhidî
チンギスハンは協力した部族長や部下たちに征服したモンゴルの土地と人民を分け与え、支配・管理させました。また、彼らに「貴族」の称号を与え、階級制度を導入します。
チンギスハンは戦略やカリスマ性に優れた指導者であるだけでなく、協力者や部下にも十分な褒美を与える度量の大きさを持っていたのです。
⑦モンゴル帝国の軍隊は世界最強だった
チンギスハンが興したモンゴル帝国は、当時最強といわれる軍事力を持っていました。階級制度により部隊は千人隊、百人隊、十人隊に分けられ、膨大な数の兵士を保持していても正確に軍を指揮することができました。
また、兵士ひとりに対して数頭の馬を用意することで世界最速といわれる機動力まで確保していたのです。
画像:Dschingis Khan und seine Erben
正確に指揮される膨大な数の兵士と十分に確保された機動力がモンゴル帝国が世界最強と言われていた理由なのです。さらにチンギスハンはこれらの軍隊をひとつにまとめるのではなく、同じ構成の巨大な軍隊をふたつに分けて管理していました。
これにより片方の軍隊の戦闘が終われば、続いてもうひとつの軍隊を出撃させることが可能でした。これによりふたつの軍隊が交互に出撃する永続的な攻撃を実現させていたのです。
⑧チンギスハンによる世界征服
強大な軍事力を手にしたチンギスハンは近隣国に対して次々と侵略戦争を仕掛けていきます。大国中国もその例外ではありませんでした。
モンゴル帝国は当時中国の北半分を支配していた「金王朝(きんおうちょう)」に侵攻し、万里の長城の遥か先までの征服に成功します。この戦いは10年にもおよび、当時5000万人いたとされる中国人口の75%以上が殺されてしまいました。
画像:FIVE HILLS TRAINING CENTER
また、チンギスハンは現在のトルキスタンに位置した中央アジアの国家「西遼」に対しても攻撃を仕掛けています。この戦争によってモンゴル帝国はペルシア湾やカスピ海にまでその領土を広めました。
さらにはチンギスハン自ら20万にもおよぶ大軍を引き連れ、中央アジアに征服遠征を行なったのです。遠征軍は通過する都市をことごとく破壊し、現在のウズベキスタン周辺を征服していきました。
モンゴル帝国の勝利は続きインド付近まで侵攻に成功しましたが、高温多湿なインドの環境に対応することができず、ここでやっと軍を帰国させています。こうしてチンギスハンのモンゴル帝国は地上の四分の一もの領土を支配するに至ったのです。
⑨チンギスハンの死因
帰国したチンギスハンは再度中国に征服戦争を仕掛け、支配していない土地の確保に乗り出します。ここでもモンゴル帝国軍は勝利を続け、黄河を超えてその領土を広げていきました。
また、金王朝による和平の申し入れも拒否し、徹底的に侵略行為を行ったのです。しかし、この戦争の途中でチンギスハンは危篤状態に陥り、モンゴルへの帰路の途中でその生涯に幕を閉じることになりました。
画像:pixabay
チンギスハンの死因には諸説あり、戦いの最中に落馬して致命傷を負ったとする説や病気により死亡したとする説が存在しています。亡くなったときのチンギスハンは当時にしては長生きの65歳でした。
彼は敵国の侵攻を避けるため、自身の死については秘密にしておくよう息子に命じたといわれています。また、金王朝を完全に滅ぼすように言ったとも伝えられています。
⑩チンギスハンの墓の謎
チンギスハンはモンゴルに帰国した後に埋葬されていますが、その場所は現在も謎のままとされています。彼の死は最重要機密として扱われ、埋葬の目撃者は一人残らず殺されたからです。
画像:Fanghong
埋葬後は土を掘り返したことが分からないように一千頭の馬で踏み固められたともいわれています。一千頭の馬の大移動は大変目立つことが容易に想像できるため、これが本当なら口封じに殺された人間は相当な数になったと予想されます。
チンギスハンの墓の位置は世界各国が調査しており、日本もこれに参加しています。しかし、英雄の墓を掘り起こされることを嫌う現地の人々によって調査は中々進まないの現状です。
⑪チンギスハンの孫フビライハン
チンギスハン亡き後もモンゴル帝国は近隣国に侵攻を続けます。彼の子孫は「アルタンウルク(黄金の一族)」と呼ばれ、男系即位として皇帝が引き継がれていきました。
その中でも特に有名なのがチンギスハンの孫に当たる「フビライハン(クビライカン)」です。彼はモンゴル帝国の第五代皇帝であり、中国の大国「元王朝(げんおうちょう)」の初代皇帝になった人物でした。
画像:Araniko
フビライハンは中国を支配下に置き名前を「元(げん)」に改めます。また、ヴェネツィア共和国の商人マルコポーロから、日本という島国には金が溢れていると聞かされ侵攻を決意しました。
こうして元が日本に侵攻したのが日本最大の危機といわれた「元寇(げんこう)」です。元寇は二度行われ、一度目は文永の役(ぶんえいのえき)、二度目は弘安の役(こうあんのえき)と呼ばれました。
私たち日本人の歴史にも残る「蒙古襲来」は、チンギスハンの孫によって行われていたのです。
⑫チンギスハンは世界中に子孫を残している
一代で強国を築き世界の四分の一を支配するに至ったチンギスハンですが、男性としても非常に成功していた人物であったといわれています。
英国レスター大学のマーク・ジョブリング教授はアジア人男性およそ5300人のY染色体を調査しました。すると被験者のうち2000人以上が、過去に存在したある11人の男性の子孫であることがわかったのです。
画像:pixabay
これは統計的に考えると、この11人の男性の子孫が現在アジアに8億3000万人もいることを示していました。そして、生物的に成功したこの11人の男性のひとりがチンギスハンであり、その子孫は1600万人を超えると
考えられているのです。
強国の皇帝だったチンギスハンには30人の妻と数多くの愛人がいたと考えられており、産ませた子どもの数は100人を超えるともいわれています。また、彼の子孫も王族や権力者であったため、その後も遺伝子が拡散されていったのではないかと考えられています。
⑬チンギスハンと源義経は同一人物か?
チンギスハンには日本の源義経(みなもとのよしつね)と同一人物であるという説があります。源義経といえば幼名の「牛若丸(うしわかまる)」や「武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)」と共に戦ったことで有名です。
義経は兄の源頼朝に命を狙われてしまい自ら命を絶ったとされています。しかし、実は義経は死んでおらず、海を渡ってモンゴルに逃げ延びた後、チンギスハンとして活躍したのではないかというのです。
画像:中尊寺所蔵
事実、チンギスハンと義経にはいくつかの共通点が存在しています。両者は生きた年代や体格が似ており、チンギスハンが使用した家紋は源家のものと酷似していました。
また、チンギスハンは当時モンゴルで一般的だった短弓ではなく、日本で使用されていた長弓を使っています。さらに当時の武将としては珍しく両者とも酒を飲まず、チンギスハンには義経の別名「九朗」と同じ「クロー」という愛称がありました。
義経が死んだ際に兄の頼朝が顔を確認したと伝わっていることから、チンギスハン義経説は都市伝説の一種であるとされています。しかし、影武者の存在や義経がモンゴルに対する知識を持っていたことから、決して否定し切れない話であることもまた事実なのです。
⑭焼肉ジンギスカンとの関係
羊の焼肉ジンギスカンとチンギスハンは名前がよく似ています。また、チンギスハンは昔の日本では「ジンギスカン」と呼ばれていました。
焼肉料理のジンギスカンは日本で名付けられたものだといわれており、その由来はチンギスハンにあるといわれています。
画像:pixabay
ジンギスカンの名前の由来は、羊肉を焼く鉄板の形がチンギスハンの帽子に似ているからという説や、征服戦争の侵攻中にチンギスハンが兵士たちに振る舞ったからという説が有名です。
しかし、ジンギスカンはモンゴルの伝統料理とはかけ離れているため、日本の猟師のあいだで始まった料理がモンゴルに渡ってジンギスカンになったのではないかともいわれています。
そのため日本からモンゴルに渡った義経伝説に由来して、チンギスハンから名前をとったのではないかとも考えられているのです。
出典参考:wikipedia
画像:Bibliothèque nationale de France,Sayf al-Vâhidî
いかがでしたか?モンゴル帝国の初代皇帝にして多くの伝説を残すチンギスハンについてご紹介しました。世界最強の軍隊を指揮し、類稀なカリスマ性を発揮したチンギスハンはとても魅力的な人物だったのです。
果たして彼は日本に由来する人物なのでしょうか?もし、そうだとしたら世界で最も繁栄に成功した遺伝子は日本人のものだということになるのでしょう。
世界にはまだまだロマンが溢れています。