天才の代名詞とされ現代物理学に多大な影響を与えた「アインシュタイン」。しかし、そもそもアインシュタインとはどのような人物だったのでしょうか?
今回はアインシュタインの逸話と人柄、彼が残した言葉などをご紹介します。
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目次
アインシュタイン
①アインシュタインとは
アルベルト・アインシュタインは「現代物理学の父」と称されるドイツ生まれの理論物理学者です。一般相対性理論をはじめとする様々な理論を提唱し、それまでの物理学を根底から覆しました。
現在の物理学の基礎を築いたアインシュタインは天才の代名詞とされており、「20世紀最大の物理学者」と呼ばれています。
画像: Ferdinand Schmutzer
天才特有の気難しさはあったものの柔和な人柄で、平和を愛する聡明な人物でした。趣味はクラシック音楽で、モーツァルトとヴァイオリンをこよなく愛していたといわれています。
相対性理論やノーベル賞受賞でその名を世界中に知られるようになり、白髪でボサボサの特徴的な髪型は映画やマンガの博士像として現在も定着しています。
②一般相対性理論・特殊相対性理論とは
一般相対性理論と特殊相対性理論は1905年にアインシュタインが発表した物理学の理論です。これらはアインシュタインの提唱した理論の中で最も有名で影響力の大きいものでした。
それまでの物理学ではニュートン力学に従って、時空(時間と空間)は外界から何の影響も受けないと考えられていました。つまり時間は何ものにも干渉されず常に一様に流れ、空間は常に均質で揺らがないとされていたのです。
画像:pixabay
しかし、アインシュタインは質量の大きい物体の周りでは時間は遅くなり、空間は歪むと考えたのです。これが一般相対性理論です。また、この世で最も早いものは「光」であり、光の速度に近づくにつれて時間は遅く流れるとも考えました。これが特殊相対性理論です。
余談ですがアインシュタインは相対性理論の説明を求められた際に、以下のように答えています。「熱いストーブに1分間手を当てると、まるで1時間のように感じられる。逆に可愛い女の子と1時間一緒にいると、まるで1分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性です。」
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③アインシュタインは言語障害だった
アインシュタインは5歳になるまで言葉を離さなかったといわれています。一般的に言葉を話すようになるのは1歳から1歳半頃であるため、これはかなり遅いペースでした。
また、アインシュタインには言語障害があり、大人になってからも子どものようにスペルを間違えることがありました。アルファベットの「R」に関しては、生涯反対にしか書けませんでした。
画像:Albert Einstein
しかし、5歳から方位磁石に興味を持ち始め、9歳になると「ピタゴラスの定理」を自力で証明してしまいます。12歳からは「微分」と「積分」を独学で自分のものにし、点や線に定義を与える「ユークリッド幾何学」も理解してしまいました。
天才と言って差し支えない幼少期のアインシュタインの成長は、彼の言語障害が関係していたのではないかといわれています。記号である言葉の理解が遅れたことで、形式的にではなく柔軟に物事を把握する能力が身に付いた可能性があるのです。
④アインシュタインは大学受験に失敗している
天才といわれるアインシュタインですが、意外なことに大学受験で不合格になっています。彼は名門として知られるスイスのチューリッヒ工科大学を受験しましたが、苦手な分野の点数が芳しくなかったのです。
画像:Albert Einstein
しかし、アインシュタインの数学と物理の点数はすべての受験者の中で最高得点でした。そのため中等教育機関である「ギムナジウム」に通う条件付きで、翌年度の入学許可が下りたのです。
このとき指定されたギムナジウムは実際に目で見て学ぶ「視覚教育」に力を入れており、言語障害があったアインシュタインに適した教育環境が用意されていました。
⑤相対性理論が生み出されたきっかけは夢
ギムナジウム在学中のある晴れた日のことです。アインシュタインは昼休みに学校近くの丘で昼寝をしていました。
すると彼は不思議な夢を見たといいます。夢の中でアインシュタインは光速で光の後を追いかけていました。
画像:pixabay
目を覚ましたアインシュタインは夢で見た光の速さについて思考をめぐらせます。このときの経験がきっかけとなって後の相対性理論が生み出されたといわれています。
⑥アインシュタインの大学卒業後の進路は保険のセールスマン
ギムナジウムを卒業したアインシュタインはチューリッヒ連邦工科大学に入学します。しかし、アインシュタインは自分の興味のある分野だけ熱心に研究し、そうでない分野の成績は最低評価ばかりとっていました。
また、実験中に爆発騒ぎを起こしたり、教授に反抗ばかりしていたことから教授助手になれず、卒業後は保険のセールスマンをしながら論文を書くことになります。
画像:Albert Einstein
その後、友人の父親の紹介で特許庁に審査官として就職し、増えた空き時間で物理学の研究に勤しみました。特許庁では二度昇進していますが、在職中に革新的な物理理論をいくつも発表し、最終的には母校であるチューリッヒ連邦工科大学の教授に就任しています。
⑦アインシュタインは妻と大学で出会った
アインシュタインはチューリッヒ連邦工科大学の在学中に後に妻となるミレヴァ・マリッチに出会っています。当時は女性の大学就学は珍しく、チューリッヒ連邦工科大学は女生徒を受け入れる数少ない大学でした。
ミレヴァは法廷で働く父を持つ裕福な家庭で育ちました。名門大学に進学していたため優秀な女性に間違いありませんでしたが、学生の中では特別突出した成績ではありませんでした。
画像:Albert Einstein and his first wife, Mileva
アインシュタインは24歳のときにミレヴァと結婚し、二人の子どもを儲けています。しかし、結婚から16年後にアインシュタインの家庭内暴力を理由に離婚しています。
離婚から二年後にアインシュタインはノーベル賞を受賞しますが、賞金は子どもたちの養育費としてすべてミレヴァに送っています。
⑧1905年は奇跡の年と呼ばれた
1905年は物理学界にとっての「奇跡の年」と呼ばれています。アインシュタインはこの年に「相対性理論」や光量子仮説」、「ブラウン運動の理論」に関する5つの革新的な論文を発表しています。
画像:pixabay
これらの論文はすべて後の物理学に多大な影響を与えており、それを一年のあいだに立て続けて発表したアインシュタインは業界の中で大きな存在感を持つようになります。
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⑨有名な舌を出している写真は怒った表情
アインシュタインといえば舌を出した写真が非常に有名です。そして、この写真の影響から多くの人々はアインシュタインがお茶目でひょうきんな人柄であるとイメージしています。
しかし、実際のアインシュタインは真面目で大人しく、写真を撮る際に舌を出すような人物ではありませんでした。それではこの写真はどのようにして撮られたのでしょうか?
画像:pixabay
実はこの写真はマスコミからカメラを向けられたアインシュタインが腹を立て、写真が使い物にならないように舌を出した結果撮られたものだったのです。しかし、マスコミは構わず写真を公表してしまいます。
写真が掲載されたメディアには不愉快だと多数のクレームが入ったそうですが、当のアインシュタインはこの写真をいたく気に入り、9枚も焼き増しを依頼したといわれています。
⑩アインシュタインの再婚の相手はいとこ
アインシュタインはミレヴァと別れた4か月後にいとこのエルザ・レーベンタールと再婚しています。アインシュタインは再婚の2年前に肝臓病を患っていました。しかし、当時の病院はドイツ兵が優先とされており、一般人のアインシュタインは自宅療養をせざるを得なかったのです。
画像:Albert Einstein with his wife Elsa
その際にエルザがアインシュタインの看護に当たり、それがふたりの中を親密なものにしたのです。アインシュタインは浮気性だったといわれており、ミレヴィと離婚する前からエルザと不倫関係にありました。
しかし、17年後にエルザが亡くなるまで離婚せずに添い遂げています。
⑪アインシュタインは親日家で日本の天皇にも会っている
アインシュタインは親日家だったことでも知られています。1922年に夫婦で来日したアインシュタインは43日にもわたって日本に滞在しており、当時の大正天皇にも会っています。
画像:pixabay
また、アインシュタインは天ぷらが大好きで昆布の佃煮も好物であったといわれています。親日家の彼は日本の文化にも影響を受けており、海外からは批判されることが多かった日本人の「お辞儀」も共感して取り入れています。
⑫相対性理論ではノーベル賞を取れなかった
意外なことにアインシュタインは彼の理論の中で最も評価された「相対性理論」においてノーベル賞を受賞することができませんでした。受賞理由は「光電効果の発見」によるものとされています。
これは相対性理論が直接人類に恩恵を与えるような研究成果ではないのではないかと議論されたからでした。さらにはアインシュタインの相対性理論は「ユダヤ的」であると批判する学者までいたのです。
画像:Official 1921 Nobel Prize in Physics photograph
そのためノーベル賞委員会がアインシュタインに対する批判がでないように考慮して別の理論でノーベル賞受賞を決定したのでした。
アインシュタインの相対性理論はそれまでの物理学の考え方を根底から覆し、現在までの人類発展に大きく貢献してきました。彼の理論が人類に多大な恩恵を与えたことは今では疑いようがありません。
⑬レーザーの生みの親はアインシュタイン
アインシュタインは電子が外から加えられた電磁波によって放出される現象「誘導放出」の研究も行っています。この研究の成果は現在のレーザー開発の基盤となりました。
現在、医療や通信、科学分野などで使用される「レーザー」の生みの親はアインシュタインだったのです。
画像:pixabay
また、当時有害な冷媒を使用していた冷蔵庫の不具合が原因である一家が亡くなった事件に心を痛め、元弟子のレオ・シラードと共同でガス吸収式の冷蔵庫を発明し、特許まで取得しています。
現在、これらの冷蔵庫は流通していませんが、アインシュタインが様々な分野能力を発揮していたことがわかる逸話です。
⑭アインシュタインの年収は約14億円
特許庁の審査員をしていた頃のアインシュタインの年収はおよそ1000万円ほどでした。しかし、数々の理論が認められその名が世界に知られるようになると、彼の年収は約14億円に達します。
画像:Photoplay magazine
その収入の多くはアインシュタインの名が入った教育商材からの利益でした。アインシュタインは自身の名前を使って賢く儲けるタイプの人間ではなかったため、彼にそれを提案した商才のある人物がいたのでしょう。
アインシュタインは安定した収入のおかげで、さらに自分の好きな研究に没頭することができたのです。
⑮核兵器をアメリカ大統領に薦めたのはアインシュタイン
第二次世界大戦の最中アメリカによって日本に投下された原子爆弾ですが、これを大統領に造るように提言したのはアインシュタインだといわれています。
正確にはアメリカの科学者グループが大統領に核開発を薦める手紙を書いており、そこにアインシュタインもサインしていたという形でした。しかし、これは当時核開発を進めていたドイツへの抑止力のためであり、当時の有識者としては当然の判断だったという意見もあります。
画像:pixabay
アインシュタインが考案した「E = mc²」という有名な方程式が核開発のエネルギー計算に使用されたため、彼が核兵器を生み出した人物のように語られることがあります。しかし、アインシュタインは核兵器の開発に一切関与しませんでした。
また、日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹がアメリカに滞在していた際には、アインシュタインが湯川の元を訪れ「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまいました。こんな私をどうか許してください。」と号泣し、何度も頭を深く下げたといわれています。
湯川はアインシュタインの涙に感銘を受け、それがきっかけでその後は平和支援に注力するようになったといわれています。
⑯アインシュタインは大統領に指名されたことがある
あまり知られていませんが、アインシュタインは大統領の就任要請を受けたことがあります。イスラエルの初代大統領ハイム・ヴァイツマンが死亡した際、イスラエル政府はアインシュタインに大統領になるように依頼しました。
画像:Albert Einstein
しかし、アインシュタインはこれを断っており、「アインシュタイン大統領」が誕生することはありませんでした。大人しく控えめだったアインシュタインが一国の大統領になるイメージは沸きませんが、彼が国のトップになっていたとしたら一体どのような政策を行なっていたのでしょうか。
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⑰アインシュタインは無神論者だった
アインシュタインは「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である。」という言葉を残しています。しかし、そんな彼自身は無神論者だったことでも知られています。
画像:Albert Einstein
アインシュタインは「神とは自然法則そのものであり、人格を有するものではない。」と語っています。また、あらゆる神秘的な現象には科学的原因があると考えており、「神はサイコロをふらない。」という有名な言葉も残しています。
このことからアインシュタインは宗教を「信念」や「生き方」のようなものとして捉えていたことがわかります。
⑱アインシュタインの脳は盗まれていた
アインシュタインは核兵器と戦争の根絶や科学の平和利用を世界に訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」の署名から数日後に亡くなりました。
彼は胸の痛みから倒れて入院していましたが、研究が続けられないことを理由に手術を拒否していました。さらには研究道具を病院に運び込ませる手配までしていたのです。
しかし、入院から三日後の朝、腹部動脈瘤の破裂により死亡しました。彼は死の間際に最期の言葉を遺していましたが、担当した看護婦がドイツ語を理解できなかったため、その内容は謎となっています。
画像:pixabay
アインシュタインの死後、遺体は焼却されアメリカのデラウェア川に流されましたが、解剖を担当したトマス・ハーヴェイは親族の許可を得ずに彼の脳を持ち帰ってしまいました。彼は40年にわたって無断でアインシュタインの脳を保存し、求められると知人に切片をプレゼントしていたといいます。
アインシュタインの脳は世界中に配布され、各地の博物館や科学館で展示されるようになります。しかし、最終的にトマスはアインシュタインの孫に彼の脳を返還しています。
⑲アインシュタインの言葉・格言
天才アインシュタインはいくつもの格言を残しています。ここではアインシュタインの言葉の中でも特に有名なものをご紹介します。
アインシュタインの言葉・格言①
どんな条件であれ、
私には確信があります。
神は絶対にサイコロを振らない。
アインシュタインの言葉・格言②
私は、それほど賢くはありません。
ただ、人より長く
一つのことと付き合ってきただけなのです。
アインシュタインの言葉・格言③
成功者になろうとしてはいけません。
価値ある男になるべきです。
アインシュタインの言葉・格言④
常識とは、
18歳までに積み重ねた
偏見の累積に過ぎません。
アインシュタインの言葉・格言⑤
失敗したことのない人間というのは、
挑戦をしたことのない人間です。
アインシュタインの言葉・格言⑥
大切なのは、
疑問を持ち続けることです。
神聖な好奇心を失ってはいけません。
いかがでしたか?天才の代名詞アインシュタインについてご紹介しました。アインシュタインは現在の世に多大な影響を与えました。そんな彼が現代に生きていたとしたら、私たちにどんな理論を説いてくれたのでしょうか?
世界にはまだまだロマンが溢れています。